ということで昼間に再度撮影。

桜が特別なのは、その美しさもあるけれど、やっぱり新年度ということに結びついているからなのだろうか。4月という特別なシーズンにいっせいに咲く、というところが他の花と違って印象深いのかもしれない。そしてあの散っていく様子もまたいい。散る花弁の美しさ、というのももちろんあるけど、あの儚げに散っていく様がなんというか日本人的に好ましいんだろうな、と。

まあもちろん小さい頃から学校には必ず桜が植えてあるし、それは新年度になったころにちょうど咲くものだし、ってとこで強く印象づけられてるんだろうなと。あれが仮に年に2回、6月と2月に咲くようなものだったらそう強い印象も与えないんじゃなかろうか。年に一度、四月に、というところが重要なわけだ。

最近暖かい。
桜がぼちぼち咲き始めてる。見頃は来週中盤から再来週くらいまでになるのかな… 例年もそれくらいだし。ただ天気が良くなさそう…

なんだか気力が発生しない… というのもなんだか風邪っぽいからだ。花粉症の症状は現時点では出てないので風邪… にしては熱もないし喉の痛みもないし… ただなんとなくだるい。鼻は通るのでやっぱり花粉症の症状ではなさそう。

夢にはなんらかの意味があるのだ、として。
(夢なんて何の意味も持たないと考える人は少数派だろう、と思うがどうだろうか)

夢が意味を直接に分かる形で与えないのはどうしてだろうか。
目が覚めた時にその夢を覚えてさえいれば、意味するところがすぐに分かるような形で夢を見られてもいいのではないか。その方が自然にも思えるのだが、夢というのはたいていが荒唐無稽で、その意味するところがよくわからないものが多い。(もちろん、これは「意味があるのだろう」ということを前提にしている。そもそもが夢自体が無意味なんだ、とすれば、よくわからないものであるのも当然ということになる)

つまるところ、夢というのは暗号化されているのだろうか。本当の意味を直接には与えずに、それを解いていくと意味がわかる、というように。

よく、満たされていない願望を充足させるために夢を見るのだ、とか、意識には上らないところの深層心理が夢に反映されている、などと言われるがこれはどうか。

過去に訪れた遠い場所を夢に見るのは、どこか遠くへ行きたい、という心理の表れであろう、と考えることもできるし、何か欲しいものを夢に見るのは、それが欲しいからだし、ということはまあ容易にわかる。ただし夢の内容というのはそう直接的なものだけではない。

この前に書いた、庭にたくさん人がいる夢など、それが何を意味するのかさっぱりわからない。一見しただけではそれが願望の充足に結びつかないのだ。とすれば、願望を充足させるため、という以外の意味もある、とするか、あるいは、これは暗号化された願望充足のための夢、と考えるかのいずれかだ。また、願望充足のため、とするのならば、悪夢というものに関してはどう説明したらいいのか。

この前のものから、登場したシンボルを抜き出してみる。

庭のなかのモノの配置などはどうでもよかろう。それは現実と大きく違う部分はなかったし、おそらくは記憶がそのまま再生されているのだろう。

  • 20人ほどの見知らぬ人

ほぼ全員が東を向いている、というところになにかありそうだ。自宅の庭の東側は垣根があって、その向こうには海が見えるが、この20人ほどが並んでいるところからでは垣根の向こうは見えないはず。また、全員が黒っぽい服を着ている。喪服というか礼服というかそんな感じの。だが堅苦しいことが行われているような雰囲気ではない。

  • バスケット

大きさは20x15cm程度、深さは15cmくらい。取っ手がついている。まあ、コンビニの買い物かごをふたまわりほど小さくしたようなものだ。半透明のプラスチックでできている。別に珍しいものではない。こういうかごが欲しければ店に行けばすぐ手に入るようなものだ。

  • 赤ん坊を抱いた少女

歳は15歳から17歳くらいに見える。背丈は自分より低い。自分の目線の高さが少女の頭頂部くらい…とすれば155〜160くらいか。顔立ちはまあ普通の、日本人的な。黒い髪でストレートの、長さは肩にかかるくらい。顔立ちもまあまあ思い出せるのだが、それが誰なのか、ということはわからない。初対面の人を見ているような感じで、顔は見えているのだが名前はわからない、といった具合。過去にそんな人に会ったことがあったか、と言われれば、記憶の範囲の中には無い。

  • その赤ん坊

抱かれている。よく赤ん坊が着ている服を着せられている。(ツナギ状になっていて白っぽいあれだ)男の子なのか女の子なのかはわからない。まあ実際赤ん坊は顔を見ただけでそれを判別することは難しいものだ。抱かれていて、おとなしくしている。

  • 赤ん坊の名前を告げられる、ということ。

夢の中では、この赤ん坊の名前は聞いている。だが目が覚めてからそれを思い出すことはできなかった。あのまま続いていれば、おそらく名前を聞き返すのではないか、と思われる。

  • 位置関係

集団は自分からみて南。集団から見て北側には段差になっているところがあって、そこに自分は座っている。距離は10〜15mくらいだろうか。うちの庭に実際に人を20人ほど配置して段差のところに自分が座ったら距離はそれくらいになるはずであろうから、やはり庭の配置については記憶がそのまま再生されているように思われる。集団は並んで立っている、といってもきちんと整列しているわけではない。段差のところに座っている自分、から見て一番手前の列のところにその少女が立っていた、のだろう。

とまあ、このようにシンボルを抜き出してみてそこから意味を考えてみる… としても雲を掴むような話だなあ。暗号なのだからなにかそれを解くための鍵になるものがあるのだろうか。鍵があるとすればどこにあるのか…

もしかすると鍵は夢の中にはなくて、それは現実の中にあるのかもしれない。現実の中にある鍵、夢の中に出てくるシンボル、この二つを合わせると意味が分かる、というような。としても結局、鍵がなんなのかがわからなければ意味がないわけではあるが。

意味のあるものである場合もあるし、無意味なものである場合もある、と考えることも可能か。その場合、それをどこで見分けるのか、ということが難しいが。一見して意味が分かる夢以外はすべて無意味である、とするのは性急なように思える。

日記、とは言うがほんとに今日一日あったことを並べて書いたらそれは負けであろう。
そうそうおもしろい事なんて無いのが日常である。
起床→出社→仕事→飯→仕事→退社→飯→ゲームして→寝る
これである。とは言え毎日毎日波瀾万丈で生きるか死ぬかの瀬戸際を綱渡り、みたいな生活をしてたら「ああもっと安定した生活がしてえなあ」と思うのが目に見えてる。

今朝は(といっても書いている時点から見れば先日の朝だが)目が覚めてまた寝て、そしてまた目が覚めて寝て…というのを4時間ほど、そして寝ているのは1時間弱、というパターンで繰り返していたので何度か夢を見た。(こういうパターンででもないと、複数の夢を覚えている、という事は無い)

うちの庭に人が20人くらいいる夢。全員喪服というか礼服というか… そんな格好で。
個々の人が誰なのかはよくわからないが、自分の親戚なども含まれているようだ。
全員が東向きで、ある程度の秩序をもって並んでいる。
自分は、半透明のプラスチックでできたバスケットを持って、その集団をある程度離れたところから見ている。この集団が何であって、何の目的で集まっているのかは皆目わからない。
しばらくそれを眺めて、集団に近づいてみると、一人の少女と目が合う。
その少女は15〜17歳くらいに見えて、でもそれが誰なのかはわからない。顔ははっきりと見えているのだが、名前はわからない。
この少女は小さい赤ん坊を抱いていて、そして、その赤ん坊の名前と生まれを自分に告げるのだが、というあたりで目が覚める。その赤ん坊の名前はわからないまま。

というような夢を見た。意味がよくわからない。明らかに荒唐無稽なように思われる。

こういった荒唐無稽な夢、というものは解釈が可能なのだろうか。それとも夢自体はまったく意味を持たないのだろうか。
解釈できるのであれば、どのようにしてだろうか。「夢占い」みたいなものによくある、夢に登場するシンボルと、それに対応する意味、というものはどの人においても通じる、と考えて差し支えないのか。または、シンボルとそれに対応する意味、というものから意味を読みとろうとする試み以外にもなにか方法があるのかどうか。

ということは、やはり、夢を覚えているうちに記述しておいて、書き留めておいたものの中から何らかの共通点などが見いだせるかどうかを気長に探るしかないかな…

つづき。脳だけ生きている、という状態はどうなるのか。

意識・思考・意志があるのならそれは生きている… という事にしよう、とも思えるのだが、一切の感覚がなくなってしまっている人間、というものも想像しがたいものがある。
視覚・聴覚はもちろん触覚・温度の感覚・嗅覚等々…が一切無かったとしたら。

その状態で、自分がいる、ということを実感できるのかどうか、おそらくできない。
できることは、考えるということのみである、という状態で「生きている意味があるのか」としたら… やはり体を通して得られる感覚とそれを認識する意識、という二つが揃っていて初めて人間は人間であろう。(感覚は不完全でもいい。一つか二つ欠けていても問題ではない。というよりは、一つあればいい。一つでもあれば「自分がいる」ということを認識できるはずだ)

そしてもちろん脳だけでは感覚というものは得られない。センサーがないのだから。温度センサーからの信号を受信する端子が付いている機械そのものだけでは温度がわからないのと同じことだ。その機械にセンサーをつけて初めて温度がわかる。

そもそもが、これは死んでるのか死んでいないのかわからないが、それを定義しよう、というところに無理があるのではないか。自明な死ではないが、死んでいるのか生きているのか決めかねるもの、というのがそもそも不自然なのだからしょうがないのだが。

(呼吸していない・心臓が動いていない・血流がない・脳の活動も停止している全停止状態を自明な死としよう、逆に、これらすべてが(不完全にせよ)満たされていればそれは生きていると言える、これは自然なことだ。ただ、健康な状態から瀕死まで、程度の差はあるが)

と考えると結局、人の英知そのものが不自然なんだなあ…と思わざるを得ないわけではあるが。