続き。

夢に関して不思議に思われる点について。

夢は基本的にすぐ忘れてしまうものだが、そうでないものもある。
夢の具体例を挙げることができるのもそのためだ(すべての夢をすぐ忘れてしまうのでは夢の具体例など挙げようがない)

この、すぐに忘れてしまうもの、とそうでないものの差はどこにあるのか。もちろん起きたときの状況などにも左右されるのだろう。たとえば(夢を覚えていられる状態で覚醒したとして)目が覚めた直後に大きい地震があったときと、何事もなく目が覚めてからもなにもせずに横になっているような状態の場合、ということを考えれば、やはり目が覚めてすぐに地震があったときの夢は忘れやすいのではないだろうか。地震だ、揺れはおさまるだろうか、とか、何か落ちてきたりはしないか、といったことを考えるために意識が集中するであろうから。何事もなく目が覚めて横になったまま今まで見ていた夢の内容を反芻していればそれは当然記憶に残りやすいだろう。だがそれだけなのだろうか。

荒唐無稽であるが、そうでない場合もある、ということ。夢は、写真が納められた箱から2枚の写真を無作為に抜き出して、その間のストーリーを適当にひねり出して作られたもの、のように思える。というように基本的には荒唐無稽なものであるのだが、そうでない場合もあり、夢というのはつまり意識の働きが弱くなっているとき(眠っているとき)に、記憶のなかから適当に選ばれたものどうしの間に適当なストーリーを適当につけて作られているものなのであろう、というだけでは説明がつかない。

ついこの前に見た夢で、以前勤めていた場所(ここはもう無くなってしまった、というのはその夢を見る前の段階で知っていた)に自分が行って、以前勤めていた場所を片づけている以前勤めていた場所にいた人と話をする、という夢があったが、これなどはそう荒唐無稽なものではない。

近くにある記憶どうしが引き出された場合にはある程度の現実性がある夢になる、とも思える。例えば、ここ一週間で見た(経験した)内容の記憶だけが抜き出されて作られた夢と、ここ10年の間に見たものが抜き出されて作られた夢では、ここ一週間の記憶で作られた夢のほうが現実味のあるものになるのではなかろうか。
(今の自分、一週間前に見たもの、3日前に見たもの、という3つを繋ぐストーリーはまだ現実的なものにしやすいが、今の自分、高校時代に見たもの、5年前に見たもの、という3つを繋ぐストーリーはどうしても非現実的になりやすい、のではないだろうか)
そして、夢は、記憶が納められた箱から複数の記憶を無作為に抜き出して、その間のストーリーを適当にひねり出して作られたものであろう、とすれば、どうして無数にある記憶の中から、夢の材料になるその記憶が選ばれたのだろうか、という疑問が残る。

夢の材料というのは何なのか、ということ。おそらくは記憶にあるものが材料となっているのだろうが、まったく現実に見たことのないものが見られる場合もある(緑色の月なんて現実に見たことはない(赤い月、なら時々見かけるのだが)
記憶の中にあるものどうしを結合させてまったく見たことのないものを空想(起きているときの空想とは別種のものだろう)する、ある程度の能力がある、ということだろうか。

夢について考えるときにどうしようもないのは、記憶している夢が少なすぎる、ということだ。もちろん夢をなにかの機械に、ビデオを録画するように記録しておくことはできないし、他人の夢を可視化してそれを見る、ということもできない。そのためにどうしても「こうなってるんじゃないだろうか、たぶん。本当のところはわからないけど」といったレベルの話にしかならない。
(夢を覚えている、といっても本当にきちんと覚えているかどうかは怪しいものだ。起きた後に意識的に夢の内容を多かれ少なかれ改変してしまっている場合がほとんどのように思える)