脳死、というのは人として死んでるのだろうか。

生きている、ということと、死んでいない、ということは同一のことではない。
意識・思考、そして意志がなく、外部から栄養を与えられてさえいれば呼吸はして、生きてはいる、というよりは「死んではいない」というだけの状態の人を人間と言えるのかどうか。

逆について、つまり、脳だけ生きている、という状態ではどうか。(そんな状態は有り得ないのだが)
体はまったく動いておらず自力では移動することすら、いや、外界への接触が全くできない状態でも、脳だけは生きていて思考はしている、というのであれば、それはその人は生きている状態である、と考えられると思う。つまり自分にとって、人が人であるかそうでないか、と言うことを分ける境界線は「意識・思考・意志があるかどうか」ということだ。そしてそれは脳に宿っている。
(意識・思考・意志とは何か、ということはまあ深く考えないでおこう。そのことは本筋から外れる、少なくとも医学上の問題ではない。それは哲学上の問題だ)

結局、体は生きてはいる、呼吸もしているが、考えていない、というものなどとても人とは言えない。それはただの呼吸する機械だ。とは思うのだが仮に自分の肉親がそういう状態になったとしたら、それに向かって「これは死んでいる」と言えるかどうか。とても言えそうにない。「だってまだ温かいよ、体温もあるし呼吸もしてる、この機械が付いてるかぎりは「生きていられる」んだから、だからこの機械は外さないで、生かしておいて」とでも言うだろう、おそらく。

脳死、という状態自体が不自然なのだ。本来なら死んでしまう人を人為的に生かしておけるようになった、ということが。
そもそもどうして脳死ということを考える必要があるのか、と言えば臓器移植のためだろう。生きている人を殺して臓器を摘出したのでは具合が悪い、だから生きているのか生きていないのかわからない人を明確に「死んでいる」と定義した上で臓器を摘出しよう、と言うわけだ。
だがこの定義は難しい。医学的に定義することは可能だろうが、それが心理的・精神的・宗教・哲学的に万人に受け入れられるか、と言えばとてもそれは無理だ。
脳死の人(いずれ死ぬ)と臓器移植を待つ人(移植しなければいずれ死ぬ)両方とも死んじゃうよりは、生きてるんだか死んでるんだか分からない脳死の人にはすっぱりと死んでもらって、臓器移植をしたら生きられるかもしれない人が生きてたほうがいいだろう、というような単純な話ではない。

誰か、から臓器を貰ってまで生き続ける、というのもどうなんだろう。誰かの死の上に成り立つ自分の生… と考えるとなにか受け入れがたいものがあるように思える。でもこれも「自分の肉親が」と考えたら、見ず知らずの誰かが死ぬ、という事と、それで自分の肉親が生きられる、ということを天秤にかけるんだろうなあ。